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療育コラム 僕がメガネをやめた理由。〜必要機能の『押しつけ』について考える〜

2018年11月30日

私の視力は0.1ぐらいです。左右とも。
昔は良かったんです。左右とも。

1.5を下回ることはなく、調子の良いときは2.0台をたたき出すこのCマークの記憶力。
あ、いえ、でもちゃんと見えてましたよ。1.5までは。

今から約37年前。小学校6年生のころ、私はマイコン(今のパソコン)と知り合いました。
しかし今思えば、当時父から買ってもらったNECのPC-6001というマイコンに夢中になったが運の尽き。
それからファミコンに心を奪われ、自分が遊ぶゲームは買うかツクル(プログラミング)中学時代、そしてゲームとバイクと柔道に没頭する高校時代を過ごしました。

それなりに青春は謳歌しましたよ。
でも私は常にPC(コンピュータ)が側にある人生を生きて来たようで、それは幼少期もしかり。
親から授かった素晴らしい両の目の視力は、10代後半からみるみるうちに低下していきました。

今思い出すと高校生の時代からメガネを愛用していましたね。
当時のメガネはべっ甲とガラスで出来た重たいもので、着け心地は今のメガネと比べてお世辞にも良かったとは言えない代物・・・と曖昧な記憶をたどっていますが。

ただ、よく見えたのです。
ゲーム機やPCで酷使した目ではありましたが、このメガネを着けることによって、とてもよく見えたのです。
あちこちにある看板、ポスターやカレンダー、校舎や街頭の時計、黒板、そしてみんなの表情・・・裸眼であるよりメガネを着けることにより、見えにくかったモノがとてもよく見えて、またその視覚から入手する情報を脳にインプットし続けた今、メガネを着けるという行為は、大人になった自分を形成するための経験やスキルに、多少は寄与してきたんじゃないかなっと自負しています。視覚の情報は本当に大事なんだと、あらためて思うわけですよ。

ところがです。私は最近メガネを外しました。

外すと言ってもこの歳になり、また視力が回復したわけでもなく、「なんだ、どうせコンタクトに変えたんでしょう?」とかいうトンチも必要ありません。言っておきますがレーシックとかでもないです。
つまり裸眼で視力は0.1・・・のままメガネを外すことにしたのです。
もちろん安全面や仕事で必要な時には着けますよ。
車の運転や子ども達の見守り時など、機能として0.1では事足りないシチュエーションでは今でもメガネは装着しています。

ではなぜ今頃・・・今まで30年ぐらい愛用してきたメガネを外すことにしたのか?

世の中、見え過ぎることに疲れたのです。なんちゃって。
というのは大げさかも知れません。
しかし気がつけば、ある程度視覚に頼らなくても生きていけることに気がついたのです。
事の発端は老眼。
遠くを見たけりゃメガネをする。手元を見たけりゃメガネを外す。
この頻度が多くなり、もともと面倒くさがりの私にはとても耐えられない諸動作になってしまったのです。
遠近両用のメガネやコンタクト?お値段もさることながら、やはり面倒くさい。
ならば答えは簡単シンプルに。
「そうだ。メガネをやめればいいんじゃないか?」
ということです。
で、ここで問題になるのはトレードオフ。
面倒からの解放を手に入れるため、この『メガネを着けない』ことで困ることはなんでしょう?
それは、高校時代あれだけ欲していた視覚からの情報がある程度途絶えてしまう・・・ことが大半であります。
そりゃそうでしょう。今までハッキリ見えてきたモノが見えづらくなるのですから。

しかし、メガネを外して気がついたのです。
今まで自分では『視覚で判断してきた』と思い込んでいることが多いことを。

例えば朝起きてメガネを着けます。テレビのリモコンを探すために。
また新聞を探します。そう新聞を読むために。
でもこれらの諸動作には、よく考えるとメガネは必要ないんです。
私の視力は0.1はあるわけですから、リモコンは机の上にあるのは知っていますし、新聞もリモコンの横にあるのは知っています。これってよく考えたらメガネで視力の補正をしなくても、簡単にそれらを手にすることができたんですね。
実際新聞を読んだりテレビの視聴についても、私の家のテレビ(47インチ)と私の着座位置からすればメガネは必要ありません。また新聞はかえってメガネなしの方が見えやすいんですよ。老眼ですから。
にも関わらず、私は今まで約30年間メガネを掛けてリモコンや新聞を探していました。
メガネがないとリモコンや新聞を見つけることが出来ないと思い込んでいたのです。

しかもメガネを着けてリモコンを探すと・・・お部屋の片付けが出来ていないことに不快感を持ってしまったり(普段から片付けろって話)、カレンダーを見ては詰まる予定に朝から萎えるわけですよ。
つまり見なくて良い情報を無理に見て、心地よい朝を台無しにすることもあるのです。

自閉症の方達に多くある「感覚過敏」。
読んで字の如く感覚が過敏なことです。
人間の得る情報には色々なモノがあるのですが、例えば視覚過敏についても「光がまぶしく感じる」や「光が人間の目に映るタイミング(周波数)が、とても細かく感じる」や「近くのものから遠くのものまで、なんでも鮮明に見え過ぎる」というようなことまで、多種多様に存在します。
また視覚に限らず、それは「音」であったり、「匂い」であったり、「触感」であったり、「味覚」であったり・・・五感に分類される感覚力は大なり小なり人それぞれ違うのです。

私達健常者(と思っている人間)は、私もメガネの一件で思っていたように、つい感覚は多い方がいいと勘違いしてしまうことがあるのです。
「見えないより見えた方がいい!」
「聞こえないより聞こえた方がいい!」
そう思ってしまいがちなんですね。
でも実際は、上記感覚過敏の方々には、その機能の強化は不必要であったり、時は苦痛であったりすることがあります。
もちろん「0(ゼロ)」では機能そのものが存在しなくなるので、それは話がまた別になるのですが、情報過多は情報皆無に匹敵するぐらいに問題となることがあります。
何事にも適度なバランスが重要なのです。

もし、あなたのお子さんや知り合いの方が「感覚過敏」であった場合、つい自分目線で情報の供給を行ってはいませんか?
人と目を合わさないお子さんが仮にいたとします。その子は周りから見れば「非礼な子」であったり「人の話を聞かない子」であったりと思われがちですが、そんな時「ちゃんと人の目を見て話をしなさい!」など、あなたは注意を促すことはありませんか?
ひょっとしたらその子は「人の目から感じる光や雰囲気を人より多く感じる」子かもしれません。そんな子が人の目をじっくり見て話しを聞いても、気が気でなく余計に意思の疎通の妨げになることも考えられますよね。

私達支援をさせていただく側の人間にとって、そういう特性のある人たちへの配慮や支援方法を「その人目線」で考えて、その人に必要な機能はどこまでなのかを常に考えての環境作りが大切だと思います。

もし私が高校生の時、メガネを外すことを決心したとするならば、

「僕がメガネをやめた理由。それは『重くてかけ心地が悪い』からです。」

と言うでしょう。
しかし今、メガネを外すことを決心した私はこう説明します。

「私がメガネをやめた理由。それは『そこまでモノを見る必要がない』からです。」

とね。

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